★ひでさんの折々の記★

2011/12 師走、今年のしめっくくり
●12月30日(金)夕方、豊橋市役所からついに配達されてきた、簡易書留で。「介護保険被保険者証」である。「介護サービスを利用する時に、サービス提供機関の窓口に提示します。ただし、事前に要介護認定の申請をし、認定を受けたうえで、介護サービス計画に基づいてサービスを利用することになります」との説明文つきである。いわゆる「2012年問題」は日本でもっとも人口の多い我ら団塊の世代(1947〜49年に生まれた世代)が働く現場から引退していくことで労働市場は勿論、社会全体に及ぼす影響が大きいとされる日本独特の現象。そして、その世代が大量に後期高齢者になっていくのが「2025年問題」。良きにつけ、悪しきにつけ時代のエポック世代である。

●12月24日(土)夕方、年賀状を出しに近くの郵便局へ行こうと家を出て、電車通りに差しかかった時、左側から自転車が、「あっ」というまの出来事だったが、ぶつからずに事なきを得た。あと1秒、どちらかのブレーキが遅れていたら・・・。左側は坂道だっただけに、夕暮れ時の一番判別がつかない時間帯だっただけに、事なきを得たのは幸運以外の何ものでもなかった。あのまま、双方でぶつかっていたら、とてつもなく暗いクリスマスどころか、年末年始がどんなものになっていたか・・・。良かった、本当に良かった。気をつけよう、ハンドル握ったら、集中して運転しよう。

●12月23日(金)穏やかな天気なので、「お墓参りに岐阜へ行こう!」と決めた。ふる里―養老で父母が眠る墓前にこの一年の無事を報告。実家がおいしい「うな丼」を用意して待っていてくれた。いつも立ち寄る川魚問屋で、鮒とごぼうの昆布巻を買った。これと餅さえあれば私の正月は充分。
 岐阜市に回って、岐阜市営墓地に着いたのが夕方5時5分前。それでも閉鎖しようとしていた係りの方が「戻ってこられるまで待ちますから」と通してくれた。嬉しかったし、こういう配慮が楽しい思いにさせる。義父の墓参を済ませ、お世話になった大先輩と合流して、夕食を共にした。

●12月22日(木)介護スクール二期生の実習先確保のために市内を回っているときに、NHKラジオから流れてきたのは卒業式を中止した立教新座高校渡辺憲司校長の言葉。それを聞いて、思わず書店に入り、購入したのが「これからを生きる君たちへ」。改めて読んだ「心を揺さぶるメッセージ」

3年生諸君へ。(校長メッセージ)「時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
 海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

 真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。
 鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

●12月21日(水)20,21日と東京にいた。相変わらずの小忙し、サッサとく歩く東京の人の群れ。この大都会を、議員前半の10年間、池袋や豊島を拠点に医療情報システムの営業で走り回ったのだ。鴻巣、西船、日野、つくば、保土ヶ谷・・・、何度、朝一番の新幹線で豊橋に戻って、議会に駆け付けたのだろう。

 東京でたくさんの人たちと会った。日野で、若手の同僚議員たちと懇談し、新宿で闘う仲間と夕食を共にし、、北区役所で近づく衆院選について語り合い、渋谷で高校の同級生たちと再会を喜び合い、・・。みんな頑張っていた。懸命に新たな時代の扉を拓こうとしていた。日本の政治を変えようと、懸命に寒風に向かう仲間がいた。刺激的な2日間だった。

●12月19日(月)独裁体制の金正日総書記の死去により、東アジア情勢がどうなっていくのか。北朝鮮は国家としての重要な判断を下せるのか。危険な方向に行くのか。
 ただ、小泉訪朝以降、この国を非難の対象にして、悪のレッテルのような見方が多いが、日本が過去に朝鮮人、中国人に何をしてきたかを直視しなければならないはずだ。また、それに対して、現在に至るも全面的な解決がなされていないという厳粛な事実も見逃してはいけないと思う。この機に日本、韓国、北朝鮮、そして中国の歴史を互いに見つめ直し、固有の国家の存在を認め合うところから、東アジアの展望を開いていく好機にすべきでないのか。従軍慰安婦の問題も、拉致問題も・・。

●12月15日(木)渡会明彦先輩がなくなられた。昭和37年から昭和61年までの6期24年間、市議会議員として、草創の公明党議員として、黙々と走りぬかれた大先輩だった。引退されるにあたって、そのタスキを引き継いだのが自分であり、沢山の支持者名簿を引き継がせていただいた。
 その一軒、一軒を案内していただいた折り、「渡会先生、喫茶店で一休みされますか?」と話しかけたら、「伊藤君、支持者の皆さんは、寸暇を惜しんで支持者作りに頑張っていただいているのですから、候補者やその議員たるものが喫茶店なんかに入って、休んでいてはいけません」と教えていただいた。そんな毅然とした立党精神そのままのお人柄だった。
 副議長になった時にも、そして大先輩と同じ6期24年間を全うした時も、ご報告に行ったときに、喜んでくださったのがまだ昨日のように思われる。合掌。

●12月14日(水)明年の日中国交正常化40周年を記念する「北京・故宮博物院展」鑑賞のため、名古屋・松坂屋へ。
 明時代以降、24人の皇帝が居住した紫禁城(現:北京・故宮博物院)に所蔵されている明・清両王朝ゆかりの絵画・工芸・服飾・宝飾などの名品を通し、中国宮廷文化の精髄を紹介している。また、日本の国宝に相当する一級文物18点が一挙に公開され中でも南宋時代の名画「女孝経図巻」(おんなこうきょうずかん)は、海外初公開とか。さらに、西太后をはじめ后妃などが用いた貴重かつ豪華な日常生活用品などで食卓再現も試みられていた。

 また、故宮に生きた女性を描いた作品や、実際に身に付けた宝飾品・美容品など、女性にスポットを当てた用具が展示されていた。会場は水曜日というウィークディなのに予想以上に混んでいて、注目度の高さを伺わせた。

●12月11日(日)書評:「動こう!」動けば必ず結果が出る」新講社、和田秀樹著

 「動けば、何らかの結論や変化が期待できます」--この本の結論です。動かない自分の心をいくら分析しても、現実は変わらないし、人生も変わりません。心はなかなか変えられないが、行動は変えられます。s0尾の結果、心も変わるのなら、やはりまず「動く」ことです。
 まだ、心が決まらないから動けないとか、動機が不純なのはイヤだなどと言ってるうちに、行動がどんどん後手に回り、結局、現実は何も変わらないという事、そして何もやらない人になってしまう可能性があります・・・。

 定年、勇退という現実を余儀なくされた自分にとっては刺激的な処世本である。
 「行き詰った状況を打開しようと思ったら、ダメでもともとのつもりになって動くしかありません。それで痛い目にあえば、次は別の方法でぶつかってみようと考えることができます。あるいは大した痛さじゃないとわかれば、次はもっと身軽に動けます。問題解決能力というのは、痛い目に合う事で磨かれていくのです」心に刺さる一節だった。大変な時代、心を見つめる時間は終わった。

●12月10日(土)夜、8時過ぎからの入場のレイトショウで久しぶりに映画館へ。公開を待っていた「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」。定年を迎える地方鉄道の運転士とその妻に焦点を当てたほのぼのとした映画で、三浦友和と余貴美子が生真面目な、そして不器用ながらも自分の人生を見つめ直す”人間”を演じている。
 定年を迎えるにあたって、先輩が言う。「今までは夢中で生きてきた60年かも知れないが。定年を迎えてからの人生はまた、途方もなく長いぞ」

 また、42年間無事故を貫いてきた主人公は言う「無事故で勤務を続けられたのは、運転能力が優れていたからではない。運転能力が劣っているからこそ、事故をおこさまいと懸命に努力し、緊張して毎日を過ごしてきたからだ」。

 映画館を出て、時計を見たら午後10時半だった。月食の寒い夜はほのぼのとした思いにかられた。

●12月9日(金)風邪気味で大事を取った一日。何度も推敲した「12月議会傍聴記」。東日新聞に出稿した。掲載は早速10日から、新聞休刊日をはさんで13日までの3日間とのこと。「いくばくかの原稿料をもらっているのですか」とよく聞かれることがあるが、全く「ノー」である。

●12月7日(水)3日間の一般質問を、時間の許す限り傍聴した。節電のせいか、議場は寒く、長時間いると体全体が冷えてしまう。3日間の一般質問を総括して、統一選から8ヶ月たって真摯に議会活動に取り組んで研鑽している議員と、惰性で議会に臨んでいる議員とがはっきりしてきている。

 残念だったことを一つ。10月14日に市議会議場で「豊橋市とヴォルフスブルグ市の友好都市提携」が結ばれた。それに先立ち、10月3日から8日まで堀内一孝副市長を団長とし、佐藤多一副議長が副団長。それに各会派を代表する形で市議6人が派遣され、提携内容を詰める事や、小学校や美術館を訪問し、実務面から友好都市提携の具体的な内容について検討したと報道されている。その費用は385万円。

 これらの内容について、報告する形で本会議場で取り上げる議員がおられなかったのは残念である。議会改革というような構えたことではなく、市民の代表としてドイツ・ヴォルフスブルグ市まででかけた意味がよくわかっていなくて、会派代表の特権のように思っているとするなら、何おかいわんやである。

●12月4日(日)朝9時からの朝倉川清掃活動に参加。1990年08月05日、周辺の党員有志16人が御園橋付近のビンカン拾いを行ったのを機に「朝倉川を守る会」を結成し、春と秋の清掃活動を繰り返して21年。今日も朝早くから集まってくださった会員諸氏にただ感謝。たかが、ごみひろい、されどごみ拾いである。


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