★月間レポート★「ひであき」の動き 議会の動き

08年1月 寒風の中で、ダッシュ!
●1月31日(木)昨夜、宅急便で届いたVALUESTAR VN570/L。
 以前のような本体ボックスも、重くて場所をとるデスプレイもなくて薄型の一体型で、コードがからまるマウスも、キーボードも無線で、スッキリしたデザイン。その上、地デジ放送がクッキリ、鮮やか。
 さて、データ移動が大変である。これに取り掛かると、市議団有志で行った東京での「地方分権フォーラム」のまとめや、視察報告がまとまらない。どうしたものか。

 それにしても、私の机の前には、パソコンが4台動いている。議員になって始めた市民相談管理はEPSONのノート、今まで使っていたWindowsMeとXPのデユアルブートのVL800R、ノートパソコンのLetsnote、そしてWindowsVistaのVN570/L。まるで一大情報基地である。

 中国製冷凍ギョーザに農薬が含まれていて大変な事態。混乱の中で1月が終わる。

●1月30日(水)昨夜の「つなぎ法案」の事態を重く見た衆参議長は、「徹底した審議を行ったうえで、年度内に一定の結論を得るものとする」との斡旋案を与野党に示した。与野党双方とも、この斡旋案に合意し、つなぎ法案が取り下げられることになった。
 夕方、「両院議長が主導権をとって政党間の合意形成を図ることができたのは大きな意義がある」と北側幹事長。「政局第一でなく生活第一」と太田代表。携帯メールで県本部から事態の動向が伝えられてきた。

 夜、今年最初の党員会。こうした動きを伝えながら、私は限られた時間でねじれ現象の中で必死に闘う公明党を訴えながら、「道路特定財源」継続の話をした。
 そして、「党員の皆さんご理解いただきましたか。それでも『道路の重要性はわかった。逆に生活に影響出ることも分かる。それでもガソリン代を下げてくれ』」と挙手された方は37名中21名。これには、いやになるほどの力のなさを感じた。

 「私は大工だ。日当2万円の時もあったが、今や1万2千円。それでも高いといわれる。その上、豊橋から岡崎や安城まで朝早くからラッシュの中を現場へ向かう。ガソリン代があがっても、日当は上がるどころか、下がるばかり。ガソリン代が下がる手立てがあるのやから、何とか下げてほしい」

 「党員やから、公明新聞しっかり読んどる。最近は『暫定税率の維持を』という知事のコメントが出ている。立派な方々が立派な背広を着て写真に写ってる。大衆政党なんやから、今まで灯油が2缶買えたお金で1缶しか買えない年金暮らしの人々や、うなぎ上りで打つ手なしの養鰻業者などの声を載せるべきだ」という党員の声には、黙って聞いている以外にコメントはできなかった。

●1月29日(火)昨夜、自公与党は、3月末に失効するガソリンなどの揮発油税の暫定税率の期限を2ヶ月延長する「つなぎ法案」を国会に提出した。最悪の場合は再議決の60日で暫定税率を担保した。これに民主党は「ガソリン値下げ隊」というパフォーマンスで、一気に緊迫してきた。

●1月28日(月)朝から上京。東京グリーンパレスで「自治体トップフォーラム−本格化する分権時代の地域経営改革」に参加した。佐賀県の古川知事の「分権時代の地域経営」、山口県防府市長の「基礎自治体からの提言」も現場からのレポートであり説得力があった。

 それ以上に、特別講演の「第2期分権改革の意義と実践への道筋」と題した早稲田大学大学院教授北川前三重県知事の話は、おもしろかった。かつ、「原案通り可決を繰り返している議会は本当に必要か」と迫る話には思わず身を乗り出した。

 政府、与野党、、国会の現状を見るとき、国民の期待からほど遠いといわざるを得ない。各党とも「地域重視」「生活・生活者重視」を主張しているものの、分権改革に象徴されるように、国民に「重い選択」求めるだけの充分な「党内論議」「国会審議」「体系的で責任ある政策」ができているとは言いがたい。また、分権改革を求めてきた地方の側も、あえていえば「国民の側」も、「お上意識」が抜け切れていない。同じ「日本丸に乗船」する者として、国民と政党・政治家の双方が「意識改革」「自己改革」を断行すべき時期に来ている・・・・・場内に北川節が響いた。

●1月27日(日)少しは寒波もゆるんできたが、それでも風強く寒い一日。午前中は石巻Aコープ、ニューライフフジ、金田住宅、柳原団地、サンヨネの6ヶ所で街頭演説。
 「ドクターヘリの実効性」と一週間前に神戸を歩いた体験をもとに「防災の街づくり」について話した。団地の上階から手を振ってくださったり、建物の陰から拍手が聞こえてきたり、嬉しかった。また、車で通りかかった知人が、ホットコーヒーをUターンして渡しに来てくれた。

●1月26日(土)午前中は二川駅近くで葬儀告別式へでかけ、近くの喫茶店へ挨拶に行った。そこで環境署名活動中の党員さんとバッタリ。様々に話し合うことができたが、議員の恩給や、退職金、政務調査費、実費などについて少しは誤解を解くことができた。

 午後からは、「ひでレポ」を配った。夜は連絡協議会。

●1月25日(金)午後からは、寒気もやわらいだので、「ひでレポ」配布に集中。それでも足の筋肉が固まってきて、何度止めようとしたことか。それでも、北国で頑張っている公明議員のことを思って、頑張った。4時間。

 夜は、第8回、「新春公明党豊橋セミナー」。寒波襲来の中で150名の外部有力者に、ねじれ国会の中における公明党を、丁寧にじっくりと、聞いていただいた。
 「公明党は真面目にがんばっとる」、「こういうふうに丁寧に現在の政治状況や論点を聞くことができた」との感想が寄せられた。

 「何とか愛知県2番目の都市にふさわしい公明支持基盤を確立したい」と21世紀に入ってすぐの2001年1月23日に初めて行って、8回を重ねた。本来、セミナー形式で特に「草川昭三副代表の話をじっくり聞いていただこう」という企画であった。
 しかし、草川氏が国政を去り、今夜などは、入れ替わり、立ち代りの顔見世興行のようになってきた。これは再考すべきでないか。

 愛知県立成章高校が21世紀枠で春の選抜に選ばれた。隣の田原市に学校があり、公立、練習時間は3時間、なおかつ渥美半島という地理条件も克服しての甲子園決定である。エースの小川君をはじめ、選手の中に4人の知人の息子さんんがいる。おめでとう、成章高校、ガンバレ。
 東三河地方からの甲子園出場は33年ぶり、同校としては36年ぶり。

●1月24日(木)寒波が豊橋の街を震え上がらせていたが、寒風に棹差すように6ヶ所の街頭演説にがんばった。
 「私たちの身近で、公明党が推進した『ドクターヘリ』がお隣の田原市に住む3才の男の子のかけがえのいない命を救いました・・・」と昨夜、急きょ作った遊説原稿を片手に訴えた。ほとんど道行く人もいなく、車も少なかったが、ホットニュースはホットなうちに伝えなければと頑張った。

●1月23日(水)昨日の夕方から、「ドクターヘリ、子どもを救う」のニュースが流れていた。三重県本部の山内氏からも問い合わせがあった。これを、地元議員として、どう発信するか。
 それで、夕方のニュースを録画し、活動が終わって帰ってきた9時過ぎから、まずビデオの音声を、録音テープにダビングし、それを遅いスピードで何度も聞きながら活字にし、全体像をつかんだ。そして「ドクターヘリ、3才の子どもを救う」という遊説原稿に仕上た。

●1月22日(火)超少子高齢化社会の中で、今までの政策体系では乗り越えられない大きな壁の前で、前人未到の新たなる行政と政治の構造改革と政策展開が求められているのは、今日2時からの、公明党太田代表の代表質問に如実にあらわれている。

 寒さもやわらいだ午後から「ひでレポ」を配った。途中に出会った地域の方に「あなたはこうして、議員活動の最後の日まで、配り続けるんでしょうね。最後まで地方議員としての姿勢を崩さない方なんですね」といわれ、それがまたプレッシャーとなり、自分を駆り立てる。

●1月21日(月)午前10時から団会議、議会改革について話し合い。午前11時から「都市機能調査特別委員会」の各派代表者会議。いづれも微妙な問題に真剣な会議が続いた。

●1月20日(日)午前中は冷たい風のなか、街頭演説を6ヶ所で。午後は「年金問題」で市民相談に。ご主人が国民年金で、途中からあいまいになっていて、障害者になった。逆に奥さんは、家計を助けるために長く厚生年金加入者。良く調べなければ、お答えできなかった。しばらく、時間をいただいた。

 夜は、豊橋市内のホテルで恒例の「豊橋岐阜県人会」の新年会。東三河地域の岐阜県出身者が集い、郷里の話や、近況を語り合い親交を深めた。
 会員として参加した岐阜県土岐市出身の稲垣隆司副知事は「毎月の郷里への墓参は欠かさないで、岐阜県人の思いを大切にしています。この会合を楽しみにして参加しました」と挨拶。
 会長である私は、「新年は穏やかな気候に恵まれましたが、株価の低迷や、原油高、政治のねじれ現象などで、閉塞感が覆っています。豊橋の歴史のなかで、岐阜県人が果たしてきた役割は大きく、それぞれの地域で、それぞれの人生を、前向きに明るく頑張って生きましょう」と挨拶した。

 最高齢(91歳)の鈴木英男氏の乾杯の音頭で懇親に移り、それぞれの故郷への思いが和やかに語られ、合併で地名が消えても、故郷の思い出は変わらない」と団欒の輪は広がった。
 そのなかで、パワーポイントを使って、「道路特定財源について」説明したが。参加者が「単に集まって、飲んで食事するだけじゃなくて、今日はいい勉強ができてよかった。政治家だけにこういう問題をまかせていてはいけない」とみんなに話してくださったのが嬉しかった。政治色のない会合にしなければと配慮していたが、大事なことだからと説明した甲斐があった。

●1月19日(土)PHP新書「親の品格」(坂東眞理子著)を読みながら、芦屋駅に着いたのが11時半。高校の同級生の兵庫県会議員の山田女史に駅近くの事務所を訪問し、再会を喜びあった。
 彼女の義両親も13年前の大震災のとき、亡くなったという。あの震災がなかったら、「自分が芦屋市の市会議員の人生も、ましてや、昨春からの県会議員の人生もなかったであろう」と彼女は言う。それだけに「家業の時計店のウィンドウが粉々になってる中で、手を握り締めたときの両親の手の冷たさは今でも、残っている」という。

 それから、13年前の2月4日にJRが芦屋まで開通したときに、歩いたであろう同じコースを記憶をたどりながら、三ノ宮まで歩いた。もっていったあの時の写真と同じ場所をどれだけ探し出せるかが、ポイントだったが、3ヶ所しかみつけられなかった。
 なによりも、区画整理がなされ、いたるところに公園が設置され、マンションが立ち並んでいたのには、改めて驚かされた。

 そして、なによりも13年の貴重な時間を掛けて、神戸の人たちがあゆんだ人生に思いをはせ、感無量になった。
 人間は強い、そして人生はすばらしい。夕暮れの神戸や芦屋の街並みをみながらの帰りの車中で、しみじみと思った。13年前と同じように歩いたことは意義あることだったと。

●1月18日(金)午前中、食品会社の役員でもある党員さんと企業訪問。
 原料高や燃料の高騰で食品業界は、横を見ながら値上げのタイミングを図っているとか。行く先々で、景気が悪い方向に向かっていることを深刻に受け止めておられた。「中小企業の味方−公明党」と一口にいえるほど現実は甘くない。

●1月17日(木)阪神淡路大震災から13年目の朝、死者 : 6,434名 行方不明者 : 3名のご冥福を祈る。

 13年前の2月4日、JRが芦屋まで開通するのを待ち構えて支援活動で神戸に行った。芦屋から三ノ宮まで歩いた。
 凍てつく公園でテント生活を余儀なくされている避難者の疲れきった表情、霜柱が融けた水が公衆便所の汚物と一緒に流れていました。そして何よりも、瓦礫の中から線香の煙がたなびき、ビンにさした一輪の花とみかんが添えられていました・・・・。すさまじい息を呑むような光景に五体が震えた。今でも脳裏に張り付いている。

 19日に、その芦屋から三ノ宮まで同じように歩いてみようと考えている。

●1月16日(水)昼に「年金手帳が2冊あるから、確認に行きたい」という知人を、豊橋社会保険事務所に案内し、一緒に説明を聞いた。驚いたのは相談窓口が以前の2倍以上になっていたこと。昼休みの時間帯になっても職員が一生懸命に対応していただいたこと。
 担当していただいた、女性職員も丁寧に、テキパキと台帳や、マイクロフィルムからの資料も打ち出して、歯切れ良く説明していただいた。職員自ら、「年金への信頼を取り戻そう」と一生懸命さが伝わってきた一時間でした。

 その時間をはさんで、夜8時過ぎまで25日の「公明党新春豊橋セミナー」の案内状を持って回った。25軒を訪問し対話したことになる。充実した一日。

●1月15日(火)企業を中心に訪問活動。
 「絆創膏を張るような対応でなく、この国のあり方も含め、政治に取り組む人たちは国家百年の計を描いて、真剣に取り組んでほしい」
 「国や国会の事はともかく、豊橋の活性化に市議会は全力で取り組んでほしい」
 「経済が悪くなっている。そこからはじき出される人たちが一杯あるはず。公明党に頑張ってほしい」など、率直な言葉が跳ね返ってくる。

●1月14日(月)今年一番の寒さの中、午前中はスーパー2ヶ所と、市営団地で街頭演説。

 午後、ファーマーズマーケットの視察を兼ねて田原市芦ケ池農業公園−サンテパルクへ。新鮮な野菜や果物を求め寒さの中でも多くの買い物客でにぎわっていた。また、隣接する地産地消の筍採ダイニングレストラン「もぐ」はバイキングが人気で、満席だった。

 近くを通る国道沿いでは「渥美菜の花まつり」が行われていて、冬の陽に光るように、清清しい黄色が広がっていた。冬本番だが、春がもうすぐまで迫っている。

●1月13日(日)午前10時から地元の旭校区成人式に出席。四年目になる「新成人”二十歳の歩み」がパワーポイントで上映された。社協の役員さんが集められた188枚の写真をスキャナで読み込んで作らせていただいたものを新成人や、地域の皆様が真剣に見入ってくださるのはうれしいものである。

 挨拶の中で「皆さんが生まれられた昭和62年に行われた市議選で、初めて立候補させていただき、市議会議員として20年経ちました。この20年間に市民の皆さんに誇れるものがあるとすれば、手作りの議会便り『ひであきレポート』を配り続けてきたことです。
 どうか、大変な環境で頑張っておられる人もあるでしょう。目標に向かって必死にもがいておられる人もあるでしょう。環境に負けないで、どこまでも夢を追い続け、悔いない青春を送ってください」と話した。

 午後から豊橋駅前で「成人の日街頭演説」。

●1月12日(土)冷たい雨が、冬本番を告げる。昼、浜名湖まで出向き、カレーうどんとおにぎりでいつもの喫茶店で昼食。浜名湖を見渡しながら、至福のひとときである。

 この4日間、ほとんど徹夜で作ってきたパワーポイント「08公明党の闘い」。深夜にやっと仕上げた。カップヌードルと焼酎で一人で頑張った自分に乾杯。

●1月11日(金)午前中に、都市機能調査特別委員会の正副委員長で、加藤副市長と面談、懇談。

 午後、企業中心にあいさつ回り。「公明党がカギを握ってますよ」との声は多い。

●1月10日(木)午後から、市議会「住民監査請求問題調査特別委員会」。参考人として寺本氏本人を招致し、疑惑解明に努めた。しかし、「署名も、捺印もしたことがない」という市民の意実関係が問題となっていたが、議論は全くの平行線。
 450人に及ぶ住民監査請求がどのようになされたのかが問われているわけで、「ならば筆跡鑑定をやればいい」と寺本氏が声を荒げたが、そういう問題ではない。

●1月9日(水)昼に市役所内を市民相談の対応やらで走り回っていたら、ピアノの心地よい演奏が。
 「市民ロビーコンサート」が行われており、ピアノ奏者ははちまん正人氏。「千の風になって」や「オペラ座の怪人」などしばし、聞き入った。

 午後3時から恒例の新春懇談会。東三河の5市長と2郡町村会長をパネラーに、東三河の広域連携の課題や展望について、議論された。
 早川市長はあいかわらずの応答で、しびれをきらしたかのように新城市の穂積市長が「流域一体の次の段階を言うのであれば、人口の半分以上を占める豊橋市が意思表示しないと、一歩も進まない」と迫ったが、「やる時は一気にやる。その時は東三河全部とプラス1(湖西市)だ」との認識を示した。

 夜は、今年最初の党地区委員会。

●1月8日(火)今年、最初の「三八朝市」。出店は12店という寂しさ。それでも、新年の挨拶を交わしながら「ひであき三八レポート」を配った。今回は「朝市の詩」を掲載した。出店者たちも喜んでくれた。

 午後からは、企業を中心にあいさつまわり。

●1月7日(月)午前10時から、議員団打ち合わせ。「公明とよはし」原稿、最終校正。一人一人が、「公明とよはし」を発行する意味を、またそれに投稿する原稿はどうあらねばならないか、全体観に立って考えてほしいと思うのは、こちらの一人よがりだろうか。

 夜は、支援団体の新春幹部会に。

●1月6日(日)岩田運動公園で消防出初式。消防本部、消防団、女性防火クラブが各種の消防車とともに勢ぞろい。穏やかな初春の陽の元で、今年一年の防災を誓い合った。
 午後からは、地域で「ひでレポ」配布を黙々と続けた。いよいよ決戦の年がうなりをあげて回り始める。遅れまじ、全ての戦いに。 ●1月5日(土)午後から、名古屋で年初の議員総会。「一人一人が党勢拡大の先頭に立って、断じて次の戦いに大勝利すべく執念の戦いを開始する」ことを誓った。

 誕生日(1月2日)の記念にと、支持者からCD「我亦紅(われもこう)」をいただいた。誕生日祝いに音楽を贈ってくれる感性が嬉しい。
 杉本正人が歌うこの歌。「マッチを擦れば おろしが吹いて 線香がやけに つき難い さらさらゆれる 我亦紅 ふと あなたの 吐息のようで・・・ あなたに あなたに 謝りたくて・・・」。
 母を思う心情が切々と響く。73才で亡くなった母と重なる。いつも農作業に汗していた母、創価学会に入ったことをなかなか許さなかった母。それでも、豊橋で初めて出馬し、当選させていただいた時は本当に喜んでくれた。
 当選祝いの花束を母に渡したら「お前は、体も大きいし、目もきついから、腰を低くし、頭をしっかり下げないかんに」そう教えてくれた。それから2年後、静かにこの世を去った・・・・。

●1月4日(金)午後、豊橋駅前で、市議団全員揃って新春街頭演説。「2008年、あけましておめでとうございます。私たち公明党は、どこまでも市民の視点で、どこまでも生活者の側に立って、未来に責任を持つ政治を国でも、地方でも徹底的に展開してまいります。
 衆参のねじれ現象が続いています。しかし、政治に停滞は許されません。政治は国民のために、市民のためにあるからです。ねじれているからこそ、理念と哲学を持った第三党が大事になります。公明党は、その重責を果たすべく頑張ってまいります。
 また、今年は私たち豊橋市民にとって極めて重要な豊橋市長選が行われます。市政始まって以来の不祥事に見舞われてから12年、今再び豊橋の新たなる活性化のために活発な政策論争が行われることを願っています」と、先陣を切ってマイクを握った。

●1月3日(木)東京へ帰る息子を送りながら、気賀のうなぎやさんで昼食。ここで毎年、うなぎを食べて、伊藤家の正月は終わる。
 「一度、このローカル線に乗りたかった」と息子は天竜・浜名湖鉄道でフルーツパーク駅から掛川駅へ向かった。「がんばれよ」としか言ってやれなかった。今春からはタイへ赴任し、海外勤務になるという。若さがうらやましい。

●1月2日(水)昨夜、酔っ払って寝てしまい夜中におきてきて、朝までかかって「公明とよはし」を編集。豊橋6人、田原1人、県議1人の8人の無事と8人の戦いで時代を開かんとの思いを込めて。

 午後、冷たい風の中で近くの交差点で街頭演説、そこで新年のあいさつ回り中の山本明彦代議士とばったり。「市長選に名前が挙がっている佐原氏は国土交通省を退職して秋の豊橋市長選の準備に入る」という情報はホンモノであることを確認した。

●1月1日(火)凍てつく我がまちの街灯の下で、ふと時計をみるとほぼ午前0時、今年も「ひでレポ」を配りながら、年を越えた。向かいの家の明かりから、部屋のあかりがもれて、テレビのカウントダウンの歓声が聞こえてくる。
 自分が選んだ地方議員の人生。多くの人に支えられ、多くの人に守られて・・・。それも、勲章などは最初から無縁の小さな政党、しかし、国を憂い、大衆に奉仕する政党の理念と哲学は深い。この人生を愚直に歩む。

 予想以上に穏やかな元朝。支援団体の新年の集いの会場で、一人一人にごあいさつ。お世話になっている自治会長にも新年の挨拶にうかがった。

 夜、久しぶりの酒にバッタリ。

●12月31日(月)風は冷たいが、もっと悪天候になると覚悟していたが、陽射しもあって、昼間は「ひでレポ」配布に徹して、精力的に回った。日頃、ご無沙汰している地域の人達に、顔を合わせることができ、嬉しい時間帯であった。
 途中、自治会長が通りかかって、「伊藤さん、コーヒーでも飲んで一服しようよ」と車から呼びかけてくれた。しばし、政治談議のコーヒータイム。そして、また夕方、5時まで、足が冷えて棒のようになってきたが、頑張った。

 そして、今、午後9時を過ぎた。これから、恒例の「年越し配布」にでかける。「やめときんよ、そんなにしてまで配らんでも」と妻や、息子はいう。「配るために配るんではなくて、己が原点を見詰めるために配るんや」と答えるんだが、解っているのかどうか。とまれ、凍てつく豊橋の街へ配りに出ることにします。除夜の鐘が鳴り終わったら、戻ってきます。

 この一年間、このホームページに約4万人の方にアクセスしていただいたことになります。多くの皆様に励まされ、支えられ、この一年、ありがとうございました。

 みなさん、良いお年を!!

●12月30日(日)年末を寒波が日本列島を覆ってきた。
 今日は未明から「三河一色さかな村」へ、正月用食料の買出しに。現地に着いたのが朝6時半なのに、対向車線は、買い物帰りの車で大渋滞。刺身や魚を求めて、魚市場は活気に満ちていた。

 もどってから、一休みして、夕方、6時まで黙々と地元地域を「ひでレポ」配りに徹した。多くの人達と交わした対話は「来年が良い年になるように、議員さん、頑張ってや」という思いが一杯、込められていた。みんな、政治のリーダーシップを渇望している。頑張らねば、せめて地方議会で。

 夜、東京から息子が帰ってきた。来春は、海外赴任になるとか。


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