★月間レポート★「ひであき」の動き 議会の動き

07年1月 決戦の年、黙々と道拓け
●1月31日(水)午前10時半から昼過ぎまで、神田候補を支援する「21世紀の会」の宣伝カーで地域内を遊説しながら回った。寒風の中で多くの方が手を振って応えてくださった。夜は定例の党員会。会合がふくそうする中で多くの党員に集まっていただいた。全員で今年の政治決戦の大勝利を誓い合った。

●1月30日(火)懸案だった市議選選挙事務所も決まった。頑張るのみ、さあ、この道を貫こう!きょうの使命を貫こう!。真実の「春」が到来するその日まで。

●1月29日(月)昨夜遅く、田原市議選の最終結果が決まった。小柳津候補は2016票で11位の当選。多くの皆さんに、半年以上の期間を真心からの支援活動応援をいただいた事を肝に銘じて、我々はまた次の戦いに向かわなければならない。

●1月28日(日)田原市議選投票日。午前中、浜松の中学時代の友人を訪ねて浜松へ。戻って以降、ご無沙汰している支援者宅を訪問。

●1月27日(土)田原市へ、渥美半島でたった一本の公明の旗を守るために、きめ細かい労作業によって積み上げられていく勝利へのプロセスにただ頭が下がる思い。

●1月26日(金)支援者を回っていた時、「伊藤さん、ワシらはもう人生の最終章に入ってる。あんたがたが、しっかりと豊橋の市政をちゃんと導いてや。そして、公明党の未来にも思いを巡らして道筋つけといてや。期待してるんやから」。長年に渡って党員として頑張っていただいた老人が、ベッドで起き上がって、しみじみ言われた時は胸が痛かった。
 「風邪引かんようにして、長生きしてくださいね」そう言って、力ないその方の手を握るのが精一杯の行動だった。頑張らねば・・・。

●1月25日(木)田原市でかってコマツ時代にお世話になった人達と再会。「元気に頑張ってるのを時々地元紙で読んで嬉しく思ってるよ。楽しみなんだよ、新聞であんたの記事に出会うと」。
 「合併で地域の名前は変わっても、渥美は渥美。”限りなく美しい”というのが渥美の由来。この名前をなぜ新市名にしなかったのやろか」。合併の陰に失われていく地名。住民の思いは複雑。

●1月24日(水)田原市議選の移動事務所の担当で終日、渥美半島にいた。3町歩の畑で農業に取り組む支援者からキャベツ農家の実態をお聞きしたり、長年、教職にあられた老婦人からは満州で終戦を迎え、日本に戻るまでの必死の行程をお聞きしたり、学ぶことは多かった。そうした中にも投票日まであと3日、同志の懸命な活動に緊張感も走っている。

●1月23日(木)支援者回りに終日。

●1月22日(月)昨日、投票が行われた宮崎知事選で、経済産業省課長だった自民・公明両党推薦候補は12万、林野庁長官を務め自民の一部や民主党地元組織も支援した候補は19万台。そのまんま東氏はそれを7万票上回る得票での圧勝だったニュース。
 圧倒的な保守風土の宮崎で、マスコミの出口調査によれば、投票した無党派層の半数以上、そして自民と民主支持層の3分の1から2分の1近くの票が、そのまんま東氏へ流れた。我が公明支持層でも公明推薦の候補には6割の投票行動であったことが報じられています。
 もとより、新知事に多くのことはのぞまなくても、また、かってのゴシップさえも帳消しにしたのではないのだろうが、彼が「しがらみのなさ」をウリに有権者の期待を集めた意味を私たちは冷静に見つめる必要がある。

●1月21日(日)田原市議選が告示となり、21人が立候補し20人のイスをめぐって、少数激戦の渥美半島丸ごとの選挙戦が始まった。

 我が小柳津候補も元気に出陣した。荒木、山本の両参議院議員、伊藤渉衆議院議員の三人が名古屋から駆けつけ、07決戦への力の入れようがうかがい知れる出陣式となった。

 夕方、豊橋市内で支持者宅で「公明党の太田代表、テレビなどでの発言に肩に力が入りすぎていませんか」。またある支持者宅では「『憲法第9条-戦争と武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する。陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』なのに自衛隊を認めている拡大解釈はいかがなものか」など鋭く反論された。渥美半島から豊橋市内と回った一日。

●1月20日(土)田原市議選応援のために渥美半島に終日。国道259号線の道路沿いに鮮やかに菜の花が春の到来を告げる「菜の花まつり」が開かれていた。

●1月19日(金)午後、「語る会」を担当。「日常生活に密着し、人生のそれぞれにバックアップする公明党の実績」を話した。高齢の参加者が多い中で、懸命に、温かく聞いてくださった。

●1月18日(木)日頃お世話になっている党員の家庭を中心に、今年一年の協力を訴えて回った。夕方からは、今日から始まった愛知県知事選の豊橋会場での出陣式に参加。神田知事が凛々しく、立候補の弁。民主党が押す石田候補と、共産党の阿部氏との三つ巴の知事選が始まった。

●1月17日(水)明日からの愛知県知事選のために、活動が制約されるので、「ひでレポ」配布に集中。途中、長年、政治に携わってきた有力者宅で懇談。「今の政治はかなり右傾化に向かっている。公明党がしっかりしなければいかん時代だ。太田代表の舵取りに期待している」と。

●1月16日(火)午前中は冷たい雨。事務整理に費やした。夜、「ひでレポ」2500枚増刷。

●1月15日(月)滋賀県長浜市の「黒壁スクエアー」の一角にある「NPOまちづくり役場」で学んだ。
 年間220万人が訪れる観光客、20年前まではシャッター通りだった商店街が再生していったプロセスをスタッフの女性が一生懸命に話してくださった。NHKの大河ドラマ「太閤記」や「一豊と千代」の追い風があったとはいえ、コーディネーター出島三郎氏と長浜の町衆の紡いだ光と影が見事に再生させていく長浜物語の一部を垣間見た思いだった。
 8万4千人のコンパクトなまちに波打つエネルギーはどこから来ているのか、もっともっと長浜に滞在し、学びたいとつくづく思った。そんな思いからか、帰りの車中「町衆と黒壁の15年」を読みふけった。

●1月14日(日)風が冷たい一日。今年最初のFAX送信を約200軒に。ちょうど90号。それから、支持者回りを40軒。夜は疎遠になっている支援者を集中的に。

●1月13日(土)町内の資源回収、三八朝市、午後からは名古屋で議員総会。夕方、名古屋市内で20年来の友人と久しぶりにコーヒー懇談。

●1月12日(金)午後から「環境経済委員会」。市基本計画に従って、農業、工業、商業の振興PRGと目標値などがまとめられた「産業振興プラン」が議案。農工商のそれぞれの分野について、行政評価と戦略の面から質疑する予定でいたが、全くの中途半端な質問となり、恥ずかしい限り。昨夜、午前12時を過ぎたら、疲れがどっと出て、風呂へ入って寝てしまったのが、大きな原因。
 結局、今日になって、市民相談などの電話をかたずけて、まとめに取り掛かったのが午前11時頃から、何とかまとまったのが午後0時半。昼食もとらずに、当局とも調整せずに委員会に臨んで、中味のある質疑になるわけがない。反省。

●1月11日(木)午後から行財政改革調査特別委員会。豊橋の行政評価システムを指導してきた関西大学の石原教授を迎えて、委員との懇談形式の委員会となった。かねてから、特別委員会であるがゆえに、こうした委員会運営のあり方を提案してきたが実現できて嬉しかった。

 通告してあった「地方における行財政改革の先駆的な「豊橋版行政評価システム」の手法により、量の削減と、質の向上に向かって、職員の意識改革も進んでいます。
 また「アウトソーシング」から、更に進んで「指定管理者制度」、「PFI」、さらには「市場化テスト」と「公共サービス改革法」を追い風に、「官から民」へ、複雑高度化した課題に的確に対応するために、急速度で進んでいます。
 そのキーワードは「人口減」であり、「分権化」と「民間化」であることは明確です。しかし、結局、煎じ詰めれば、「公務員制度」そのものが問われていて、その抜本的改革が進まなければ、弊害を助長することにもなりかねない。
 私は、現在の公務員制度を、職員採用から、業績と能力、結果を評価し、能力を伸張させ、昇格させ、退職させる新しい自治体職員制度を、独自に創設する所まで、自己責任で、地域実態に即した、独自の自治体職員制度の創設を規制緩和すべきであると、思っています。先生のご所見を伺いたい」についても端的にお答えいただいた。

 25年前、議員にさせていただく前、コマツが日本のデェミング賞といわれる日本品質管理賞に挑戦し、受賞した時に、そのQCリーダーとして積み重ねたノウハウが、議員となり豊橋の行政評価システム構築の議会論議をリードできたと確信している。嬉しくも楽しい委員会であった。

 夜は、「新春公明党豊橋セミナー」を商工会議所で開いた。他の新年会などと重なったりして、心配したが個人目標とする20人以上の支持者が寒い中に集まっていただいたのには安堵。

 草川副代表が「中国を侮ってはならない」と説得力ある草川節。安倍政権の支持率が下がる中で、小泉首相に仕えた飯島秘書官が、障害者に囲まれるような家庭環境から、単身上京し、夜学で学び、苦労の限りを尽くして小泉政権の懐刀となっていく話は、重みがあった。

●1月10日(水)午後3時から、市内のホテルで恒例の「東三河5市長・2郡町村会長を囲む新春懇談会」。
 特に5市長−早川豊橋市長、中野豊川市長、金原蒲郡市長、穂積新城市長、白井田原市長の発言は、注目したが、それぞれに個性があって、思惑があって、「東三河は一つ」の雰囲気は最後まで出てこなかった。
 広域合併、道路問題、広域圏のポイントもイマイチ不明瞭で、まとまりのないパネルディスカッションであった。特に我が豊橋市長の発言も、東三河のリーダー都市を彷彿させるものでもなく残念。また、教育者出身の中野豊川市長の発言も、市民を見下しているようで嫌な感じが残った。市民病院問題をはじめ、難局に向かっている穂積新城市長の張りのある懸命さが際立った2時間だった。

●1月9日(火)三連休が明けて、社会全体が動き出した感じ。企業訪問を精力的に行った。「市役所の部長や課長の給料、市議会議員の報酬はどうなってるのや。こんな時代やから、ちゃんと減らしているのやろうな」。
 「予定価格が公表されるようになったが、我々はプロなんやから、最低価格だけは決めて、もっと自由に競争させればいいのではないか」。それぞれに言い分はあるし、指摘される事実は重い。

 高橋アキラ前市長が亡くなったとのこと。初当選して緊張して市役所に通っている頃、ふとエレベーターの中で出くわした。「あなたが、コマツの営業マンだった伊藤先生でしょう。建設業界の皆さんが”うちに来てたセールスマンが市会議員になった”と期待してますよ」と肩を抱いて励ましてくれた。
 数々のプロジェクトが実行され、総合動植物園、豊橋駅整備、市民病院、そして市役所・・・。その裏側で贈収賄事件が発覚し、遂に失脚。まず息子が逮捕されたとき市長室に申し入れに行った。「今日、息子が収監された。父親としては辛いですよ」と肩を落としていた市長室での光景は忘れられない。合掌。

●1月8日(月)みぞれまじりの寒い一日。それでも約40軒のあいさつ回りに終日。
 「議員さんが真剣になって取り組んでくれないと、街づくりは進みません。頑張ってください」
 「年金暮らしが始まって、年々受給額が減ってくるし、あんまり高齢者をいじめないで欲しい」など。
 なかには、「もう結構ですから」と奥へ引っ込んだり、何を行っても反応がなくなってしまった高齢の支持者にはがっくり。いつまでも昔の支持者が元気であるわけでなく、見極めが肝要であることも思い知らされた。

●1月7日(日)豊橋市内一斉に校区別成人式。地元校区の成人式に参加。前夜、おそくまで加筆修正した「二十歳の記録」に当日の晴れ着姿の新成人を写して、入れ込んだ。多くの新成人や校区社教の役員さんやご父兄が喜んでくださった。

 挨拶の中で「皆さんが生まれられた20年前から市議会議員を続けさせていただいてきました。親戚も同窓生もいない転勤先のこの地で、立候補する時、家族は猛反対しました。だから、私は、”日本一の市会議員になろう”と深く心に決めて、黙々とこの道を歩いてきました。
 私が中学生の時、伊勢湾台風を初め二度の水害、父親の交通事故死、残した多額な借金のなかで、社会を憂い、社会の矛盾に敏感になるようになりました。そこから将来は”新聞記者か政治家に”との思いを強くして青春を走ってきました。
 その夢を実現することはできましたが、陰で苦労する家族や、支えていただく多くの皆様方のために”ひであきレポート”を作り続け、地域にはいずくばるように配り続けてきました。これが私が夢に描いた政治家像だからです。
 このなかにも、様々に悩み、苦しみ、迷っておられる人もあるかもしれない。どうか、負けないで青年の熱と力で道を拓いて下さい」と力説した。
 新成人たちが、最後まで真剣に聞いて下さったのが、嬉しかった。

 午後、冷たい風が吹き抜ける中、「新成人のお祝い」を兼ねて、街頭演説を3ヶ所で行った。

●1月6日、寒波が襲っていたが、年初の企業や支持者回りに没頭した。夜は、団地の支持者周り。

●1月5日(金)前夜、遅く「公明とよはし」の原稿の校正が届き、朝一番で印刷依頼。そのまま企業中心にあいさつ回りに徹した。

 「あなたがたの議員団こそ、人の顔色伺って論議する必要がないのだから、いいものは『いい』、しかしダメな事は『ダメ』と態度を明確にした議論で、他の会派や議員も引っ張り込まなければいかん。豊橋から公明の代表がでたんやから、豊橋から公明の政治をもっと発信しなきゃー」
 「控え室にしょっちゅう議員たちがたむろしている。役所の中にいるんではなく、もっと街へ出て、市民が何を考えているのかを勉強しなければいかん。そういう現場の勉強をしないから、行政が思うまま、議会も『いいわいいわ」で慣れあいもはなはだしい」など市民の声は鋭い。

●1月4日(木)朝早くから支持者回り。午後1時過ぎから豊橋駅前で議員団揃って街頭演説。地元新聞社を表敬訪問。再び支持者回り。

 「伊藤さん、本当に市民病院跡地に子ども関連施設を作っていいと思っておられるのですか。子育て支援施設なら、市内に分散させて作るべきでしょう。教育施設なら、有料施設という考え方はおかしい。福祉施設なら、ソフトを再考しなければならんでしょう」。市民病院跡地で工事が始まった「子ども関連施設」に市民の意見は様々であるが、批判的な声はいつも大きい。

●1月3日(水)早朝の「ひでレポ」配布は続く、黙々と。20年前、コマツの営業マンから転勤先のこの地で、市議会議員としての第一歩を踏み出した時に心に誓った「手作り新聞配布」である。初めて作った「ひであきレポート」創刊号。当時はB5であった。今でも大事にしまってある第一号は、我が人生の宝である。

 夜、東京へ戻る息子を浜松駅まで送った。浜松駅前の見事なイルミネーションには脱帽。「選挙の時は、会社休んで手伝いに来るから」そういって新幹線に乗り込んだ息子も26歳。後姿に「ガンバレ!」と祈った。帰りに浜松の日帰り温泉で、リフレッシュ。正月三が日が終わった。

●1月2日(火)60歳の誕生日である。娘夫婦が昨晩、帰りがけにネクタイと名刺入れセットを贈ってくれた。家族が夕食時に祝ってくれた。多くの人に支えられ、我が人生いよいよあと1/3である。じっくりと腰落ち着けて、時代を見据え、総仕上げの人生に向かう。

 あれほど、60歳の今日を迎えるのを嫌っていた自分が、なぜか、昨夜からこの日が待ち遠しかった。「40にして惑わず、50にして天命を知る、そして、60にして耳順う(したがう)」という。これは60歳で人の言葉を抵抗なく、素直に聞けるようになったことから60歳を耳順(じじゅん)と云う」のだそうだ。何かそんな心境である。

 今朝は薄暗いうちから、近所を中心に「ひでレポ」新春号を配った。約2時間。午前11時からの支援団体の集会にいき、参加者を迎えた。
 夕方、いつもの交差点で街頭演説。

●1月1日(月)31日からの恒例の年越し「ひでレポ」配布もさすがに午前1時頃になると、体ががんがんに冷えてきて、筋肉が痛くなり、帰って暖をとった。こうして2007年を迎えた。

 新たな年に、気負うことはない。黙々と、地方議員として総仕上げの戦いに万全の体制で挑むのみ。


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