伊藤ひであきの地方からの提言

公明党大会に参加して 99.07.25

 7月24日、梅雨明けのうだるような暑さのなか、東京荻窪の杉並公会堂で第二回公明党臨時党大会が開かれ、その代議員として参加し、連立政権参加という公明党35年の歴史の中で、また混迷する日本の政治状況の中で、極めて重要なエポックとなる歴史の現場にいました。

 午前中の神崎代表のあいさつ、執行部提出の運動方針案、基本政策案の趣旨説明の後、午後からの質疑の冒頭、京都の代議員からの質問がこの大会の全てを語っている。

 「長い間、庶民に支えられてきた公明党が権力や金力に左右されない国民政党として、昨年の参院選挙でも775万票の支持を得て、参議院でのキャスチングボードを握り、日本の政治の決定権を行使し、是々非々で小さな勢力ながら野党として実績を積み重ねてきた公明党が、今、何故、自民党との閣内協力に踏み切る必要性と緊急性がどこにあるのか、路線転換しようとする背景は何か、もっといえば自民党はパートナーにふさわしい政党に変わったのか」

 神崎代表は明快に答える。「自民党が強い時、自民党一党支配の特は、反自民・非自民の立場で戦うことが国民の利益にかなうとの考えで戦ってきた。しかし、自民党が歴史的な大敗北を喫した昨年の参院選に象徴されるように、もはや自民党が単独で政権を運営することはできなくなっきた。「連立の時代」が確定する状況になった。自民党も単独で政権を運営する時代は終わったとの認識の変化があったと思われる。だからこそ、自由党との連立に踏み切り、さらに今回は公明党に連立を要請してきたと思う。これは自民党に大きな意識の変化があったゆえである。

 今、経済は混乱し、教育も荒廃し、社会も崩壊しようとしている大変な緊張状況のもとで、従来通りに「自民対非自民」とか「自民対反自民」という政治の枠組みに意味があるのか。むしろ今、大事なことは、政治が国民のために何をなすことができるのかが問われていると思う。その意味で、(自民党から)公明党に連立政権参加の要請があったことは、公明党が掲げてきた中道政治を実現するチャンスだと積極酌に受け止めたい。

 また同趣旨の質問に冬柴幹事長は次のようにも答えた。「予算編成の段階から大衆のために大事な予算を使い、立法の段階から公明党の中道政治の政策を掲げ、日本の政治を民衆の側に取り戻す戦いをしていきたい。日本の勤労者6,500万人のなかで連合に属する勤労者は800万人、12%でしかない。日本の事業所の99.6%は中小零細企業である。このなかで公明党は3,000万件に及ぶ市民相談を繰り返し、大衆と共にの立党精神のままに走りぬいてきた。その政党が日本の政治に真っ正面から取り組み、21世紀の日本を開いていくのだ」と。

 思えば、私自身と公明党との出会いは公明党が結党されてまもない昭和41年であった。翌年1月の衆院選に公明党が初めて挑戦した。その時はまた私の初めての選挙権行使であった。岐阜1区で寒風の中を走りまわる衆議院候補者の懸命の姿は今でもはっきり覚えている。以来、昭和44年、47年と岐阜の衆議院選は連敗続け、多くの人達の懸命な戦いが報われぬまま風雪の歴史が続いた。出版問題もあった。政教分離問題もあった。時には残念な議員の不祥事もあった。それでもなお、懸命に戦う地方議員の行動とそれを支える無名の庶民の「この国を憂い、この国の時代を開くため」の活動があった。

 昭和51年、長良川堤防の決壊という水害の中で、全国から集まった救援物資を手に、濁流の中を腰まで水に使って、走り回る善意の集団があった。自分もその一員だった。その直後の衆院選で実に10年目の初勝利に歓喜した。その10年間が自分の20代の青春だった。

 よって、転勤で豊橋へ来て8年目、転勤先のこの地で昭和62年、自らが公明党議員としてこの地でタスキをかける事になった時も、それほどの躊躇はなかった。「大衆と共に」の戦いを先輩諸氏の行動から骨身に染み込んでいたからだ。戦後の日本政治の中で、これほど利を求めず、無償で庶民とともに汗を流してきた政党があっただろうか。それを支える行動理念と哲学をもった政党があっただろうか。

 大会の最後、挨拶に立った浜四津敏子代表代行は凛々しく訴えた。

「新世紀のあるべき姿を求める大変革のうねりの中で、私たちは本日、連立政権参加に踏み出すという歴史的な決断をし、新たな決意で出発をいたしました。それはわが国が未曾有の危機に直面している今、私たち公明党が真正面から敢然と課題解決に取り組み、『日本の柱』とならなければならない、との深き自覚の上での決断であります。

 公明党の掲げる中道政治、すなわち『生活者に奉仕する人間主義の政治』こそ、新世紀への世界の政治の確実な潮流となってきております。こうした歴史の流れの中で、私たち公明党に課せられた使命は誠に大きいといわなければなりません。公明党の目指す『中道政治』の実現こそが、日本の政治における『民衆の勝利』をもたらし、やがては人類的・地球的規模の『ヒユーマニズムの勝利』へとつながると思うからであります。そして、それこそが私たちの断固果たしていかねばならない使命なのであります」。凛とした声が響いた。

 会場で昼の休憩中に突然マイクを向けられた。

−−−「NHKですが、今まで野党だったのに路線を転換し、自民党と政権を担う事をどう思っておられますか?」
「時代が公明党の政治を求めているという事ではないでしょうか。政党の理念や基本政策を変えるという事ではないですから。新しい時代の扉を開くための出発だ捉えています。」

−−−「自民党政治の中で公明党が埋没する事はないのでしょうか」
「勿論、その結果責任も問われるでしょうが、公明党の長い歴史の中で深めてきた理念と哲学、そして庶民に根ざしたエネルギーがある限り、今まで以上に福祉・教育・環境の政策実現で国民に答えていけると思います」

−−−「地方では衆議員選挙での自民党との協力には戸惑いがあると聞いていますが」
「地方によっては今までの経過から、色々な問題もあるでしょうが、新しい挑戦には障害もつきもので、選挙協力についても今後、中央で十分協議される事が全てだと考えています」

 その日の夕方から、次の日の日曜日午前中のテレビや新聞でこの党大会の模様が報道されていますが、相変わらずの「数あわせのご都合主義」、「高揚と不安、地方では当惑」などの報道もあります。迫りくる21世紀を単なる延長線上で捉えての「非自民」「反自民」の色付けだけで済む時代でしょうか。

 99年7月24日、杉並公会堂での約1,000人集まった小さな会合が、今後、日本の政治の中でどのような意味を持つ事になるのか。いや、時代が激変する中、この日を21世紀政治への出発の日たらしめるために、この変化に一地方議員として柔軟に対応し、「地域からの改革」をダイナミックに展開していかなければならない。

 時代は待っていては創れない。歴史は自ら開くものだ。!


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