地方政治クリエイト 14/03武豊発電所視察記

安定供給へ、電力マンの戦い

■武豊火力発電所

 「武豊火力発電所」の1号機は1966年に、政府の石炭政策に協力し石炭火力として運転開始され、その後、改造して重油専焼設備となり、さらに電力需要の増加に対処するため1972年に、重油及び原油燃焼の2号機〜4号機を増設してきた。

 1号機は02年3月に廃止、2号機は09年10月より長期計画停止に入るも、浜岡全台停止要請を受けて、11年7月長期計画停止を復旧。

 電気の需要は常に変動していて、特に昼間と夜間の需要の差は大きく、新屋の電力は昼間の約半分。このため、武豊火力発電所は毎日起動・停止ができる設備としていて、昼間の需要のピークに運転する役割が多くなっている。また、ボイラーに点火するものの、タービン起動前に運転を取りやめる空振りもある。今年になって33回の空振り。その度ごとに2百万円捨てていることになる。しかし、これが大事な予備率。

■2号機の復旧

 3・11大震災後の11年5月6日、当時の菅首相が浜岡原子力発電所の全原子炉の運転停止を要請。
 これを受けいれた中部電力は武豊火力発電所の3号機の長期計画停止を見送り、約2年間停止中であった2号機の復旧に取り組み7月末の運転体制を目指した。

 2号機は車で言えばマニュアル車、2号機の復旧に際し、何よりも運転経験のある者、同じタイプの発電設備を運転できる要員を確保した。そのリーダーが現在の永崎重文所長。

■復旧のドラマ

 5月10日には第一陣の応援部隊を招集し「“いざ鎌倉!”の発電所として“中部の地に電気をお届けする気持ち”と一日でも早く復旧させるとの気概“を持ってスタートしました」と永崎氏。

 しかし、その工程には様々な困難との戦いがあった。何よりも長期停止していたことにより雨水、湿分による可動部の腐食・固着、錆(さび)との戦いでもあった。

 また、2号機は39年経過しており、すでに保守用部品を製造・メンテナンスしていない部品もあり、修理メーカーを探して修理したという。

■復旧完了

 そして、最終局面の7月27日になって、タービン起動にて油冷却器の詰まりトラブルが発生し、「目の前が真っ暗になった」(永崎所長)がやはり錆が原因であることがわかり、全員が無我夢中になって、錆の除去に取り組んだ。

 あらゆる錆を取り除き終えたのは30日の夕方、復旧までに許された時間はあと1日。  7月31日、試運転のスイッチは押され、タービンが回転する。そしてついに午後5時36分、目標出力達成。午後11時48分、2号機復旧完了。

 あの夏、中部地方では大停電はおろか、わずかの計画停電さえなかった。その陰に武豊火力発電所2号機が電力ピークに対応するために、7回稼働している。その裏側に、安定供給を支える電力マンの使命感に溢れた懸命の戦いがあったことを知った。

■エネルギー政策

 原子力発電が止まってそれを補うための火力発電に使う燃料の輸入は震災直前の2倍以上の4兆円近く増えている。一日百億円以上が主にアラブ方面に支払われている。

 エネルギー自給率4%の日本にとっては言うまでもなく、世界にとって電力というエネルギー供給が不足すると、現代社会は維持不可能になってしまう。電気がつないでいる生命もある。

 それは電力会社の利権の次元の話ではない。そしてまた、電機は「在庫」が不可能だということ。電気が在庫できない以上、電力供給は統合的に安定されなければ、現代社会は維持できない。

 この重い現実を実感した太陽光と火力発電を備えた武豊の一日でした。

(愛大地域政策学センター研究員)


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