地方政治クリエイト 13/06産学官交流サロン

設楽ダムと歩んだ人生―横山設楽町長

 6月25日、豊橋市内で行われた東三河産学官交流サロンで、横山光明設楽町長は「設楽ダム事業に伴う住民生活とまちづくりの現況について」と題し、ダムと共に生きた人生を、万感の思いを込めて語った。

■徹底抗戦

 横山氏は昭和46年5月に設楽町職員となり、その2年後、愛知県が設楽町及び設楽町議会に対して愛知県が調査実施を申し入れたのが正式な設楽ダム計画の始まり。
 当時は、町民は不安感が大きく徹底的に反対し、国の職員、県の職員は町役場に一歩たりとも入れさせないと、絶対反対・徹底抗戦の長い時が流れた。

■苦渋の選択

 昭和62年2月「空中写真測量だけを認める」と関谷晃町長が表明。町民は裏切られたと怒りが激化し「ダムについては聞かない、動かない」と反対運動が激化。
 町長は「では皆さんの意志を国や県にどこで、どのように示すのか」と問題提起し、平成3年に「設楽ダム対策協議会」が作られていった。この頃から、設楽ダム対策担当として、「町民の中を懸命に歩いた」のが横山氏。

 これをもって関谷町長は退任し、水没地域から後藤米冶町長(当時)が誕生。現地調査が行われ、岩盤が硬いということで8000万トン計画が1億d計画にかわった。「また、だまされた」と町民は態度を硬化。
 そして平成10年後藤町長は「苦渋の選択ながら、一億dを棚上げして、詳細調査を受け入れる」となり、ダムが動いてきた。

■万感の思い

 平成20年1月、加藤和年町長が「もしも受け入れてもらえるなら建設に同意する」として「建設同意に係る確約事項7項目」を示し、大きく前進した。
 平成21年2月、国と設楽町の間で「設楽ダム建設同意に関する協定」などが結ばれた。

 目的達成の喜びでなく、長い時間の中で一つの方向が定まり、重い課題に終止符が打たれたという事実に立ち会ったという万感の思いだった。

■長い時間

 東三河にとって水の必要性、洪水に強い豊川、そして安定した治水・利水に供することができることが現実化した瞬間だった。
 一方、水没する住民にとって、生活圏が脅かされること、先祖伝来の土地や財産が脅かされることから絶対反対を貫いてきた。
 しかし、長い時間が経過する中で若い世代の方たちが将来水没する地域から出ていくことになり、残されたのは高齢者という現実。将来の生活の不安感から「ダム計画がなくならない以上、保障協議を受け入れて新たな生活再建に踏み出していこうという」気持ちが強くなってきた。

 また、一般の町民にとっても犠牲だけを強いられるのであれば、町にとっては何の役にも立たないと、30有余年滞っていた公共工事を積極的に進めて、設楽町の将来に有益な施策を進めていこうという思いが強くなり、このことを、町民一人一人に理解していただいて、下流域の皆さんの協力もあって現在に至った。

■政権交代

 しかし、平成21年に政権交代が起こり、全てのダムを再検証するとなり、設楽ダムも対象となった今まで費やしてきた時間の浪費に終わってしまうとまたしても混迷していった。

 こうした中で中部整備局では5回の検証の結果、「経済的にも、投資効果についても、治水、利水面からダム建設継続が最も有利」とする素案をまとめ、流域6市町の首長も了承していただき、大村秀章県知事に意見を求めているが、知事は賛否を「留保」している。

■生活再建事業

 一方では生活再建に結びつく道路整備事業など多くの事業には積極的に予算が配分され進められている。

 補償の進捗状況は5月31日現在で対象地権者790人のうち契約済み地権者451人、契約率57%、水没される方々の生活再建世帯124世帯のうち契約完了は114世帯、92%。ダムエリア300fのうち取得面積170f、59%。

■人として、住民として

 「設楽町はお願いしてダムを作ってくれという立場ではない。しかし、人として、ここに住み続けるものとしてダム建設計画を重要な国家プロイジェクトとして、命運をかけて取り組んできた。

 時代の流れに乗じて、時々の社会情勢や方針、個々の考えで簡単に変えられることを想定して、取り組んできたのではない」と強く語ってスピーチを終えた。


 人口5630人、高齢化率42%の設楽町長として、40年の設楽ダムの歴史、そして、その23年間、政治に翻弄されながらも、ダムを乗り越え町を発展させようと設楽ダムに関わって生きてきた横山町長の熱い時間だった。この会には下流域からも首長や議長らも参加し、熱心に聞き入っていた。


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