伊藤ひであきの視察報告

八ツ場ダムの現場に立って(08/15)

●はるか高い所の巨大構造物

 8月15日、伊香保を出て国道145号を西へ。利根川の支流である吾妻川に沿って草津に向かう。ところどころに農産物直売所があり、こんにゃく畑が続く。

 吾妻渓谷あたりにくると左右の山々の風景が一変してくる。はるか頭の上に鉄筋の巨大建造物が現れる。国道やJRの付け替え工事が行われているのだと気がつくには、とにかく、その位置が高すぎる。なぜ高すぎるのか。答えは簡単である。自分が今いるのは八ッ場ダムのダム底にあたる部分を走っているからだ。
 八ツ場ダムは重力式コンクリートダムで堰堤の高さは約130mといわれる。自分がいるこの地から約100メートル上がダム湖の湖面になるということになるので、国道や鉄道はさらにその上を通ることになる。
 「ダム中止が白紙の状態でなければ前原大臣には会わない」と町長が発言した長野原町に入ると左手に川原湯温泉が見えてくる。ダムができれば水没する温泉で一躍有名になった温泉街である。ダム湖畔の温泉街という再建策を描いていただけに、政治に翻弄されてきた温泉街でもある。
 そして左手前方の同じように高い所に見えてきた大きな橋が県道橋(2号橋)。昨年の夏、政権交代で「時代に合わない大型公共事業」の象徴として建設中止が決まった時、ニュースで何度も十字架のような橋けたがでてきたが、今はその橋が横につながって完成している。

●60年間の八ツ場ダムの歴史

 ほどなく、右側に地域防災センター「やんば館」があった。
 10年前の平成11年4月にオープンした「やんば館」は、八ッ場ダムのために水没する長野原の住民の半世紀近くに渡る苦労と、ダムの必要性を理解してもらうために設置された八ツ場ダム広報センターでもある。館内では八ッ場ダム建設に至るまでの歴史が大きな年表で、またダムの役割がビデオや展示でわかりやすく紹介されていて、観光客が熱心に見ていた。受け付けの女性が熱心に説明して下さった。

 その年表によれば、昭和22年9月カスリーン台風が関東地方を直撃。大被害を受けた。そして利根川上流にダムを築いて下流部の治水と首都圏の利水のために、昭和24年に利根川改修改定計画の一環として調査が始まってからの60年余紆余曲折の歴史がうかがい知れる。

 昭和55年に、突然通告されたダム建設。昭和60年、長野原町長と群馬県知事は生活再建案について包括的な合意をし、覚書を締結、同時に水没5地域の再建対策計画を提示。そして平成4年長野原町長と群馬県知事および関東地方建設局長は「八ツ場ダム建設事業に係る基本協定書」を締結。
 平成10年、長野原一本松地区のモデル代替地を中心にまちの再生への歩みがスタート。この間に地域から流出する住民が後を絶たず、すでに当初の半数以上の世帯が転出し、住民流出に歯止めがかかっていない。

 その上での昨年夏の政権交代によるダム本体工事の入札延期である。昨年9月に前原国交相が現地視察を行ったが「批判は甘んじて受けないといけない」と述べながらも、建設中止の姿勢は変えようとはしなかった。ただし、地元の声や周辺の意見に配慮し地元の理解が得られるまでは事業廃止の法的手続きは進めないことを明言したまま、今日に至っている。

●「コンクリートより人へ」のまちの再生は可能か

 その「八ツ場館」上流には長野原草津口駅があり、草津温泉や嬬恋温泉への観光客の交通拠点になっているのだろうか、賑わっていたが、その駅前の広大な一帯は付け替え工事や関連工事で工事看板や、安全柵が一杯広がっていた。お盆休みで工事が休んでいるだけに無気味な感じもするほどである。

 ダム本体工事が中止されても、生活再建事業は継続するとの方針に変わりはないのだが、既に町外に出た人も多い。ダムを作らないで、地域再生ができるのかどうか。成功すれば公共事業が止まっても地域を再生させた初のケースでもある。

 水源地としてダム建設が予定された長野原町。そこには 関東の耶馬渓と称される吾妻渓谷 「おじぎをしたら頭が山にぶつかる」と言われる急峻な土地に、幾世代にも渡る人々の汗と努力で築かれた山里の穏やかな暮らしがどうなっていくのか。

 はっきりしているのは、この山里に安定した暮らしが築かれるまでには、まだまだ長い道のりと今までの何倍もの苦労が必要だということ。

 「ダムって何だろう」「政治とは何だろう」そんな重い課題を背負ったまま、草津を抜け、長野県に入った。


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