伊藤ひであきの視察報告

●派遣団(4)チヴィタヴェッキア港● 06.10.03

●チヴィタヴェッキア(古代の街)港の歴史

 ローマから約80km離れた街−チヴィタヴェッキア(Civitavecchia)はイタリア、ラツィオ州ローマ県のコムーネ(イタリアには日本のような市町村の区別は行政上はなく、自治都市の伝統を基礎とした共同体を示す語であり、現在ではイタリア共和国の行政における自治体の最小単位)の一つ。人口5万人、面積71ku。

 「チヴィタヴェッキア」の地名は、「古代の街」をあらわしている。古代ローマ時代、特に紀元前85年、皇帝の別荘があった関係からトラヤヌス帝により整備され、街もその時代から栄える州最大の港町。

 最も栄えたローマ皇帝の時代にルネッサンス時代には芸術家ミケランジェロなどが港の建設に携わって港そのものが文化財になって、ルネッサンス様式の要寒で護られている。
 その後アラブの海賊が地中海を荒らした頃には占領され破壊され、使われない時代もあった。その後1870年に解放され、重要な施設が造船所であったことから連合軍の空襲を受け、75%が破壊され、旧市街も破壊され、第二次世界大戦の悲劇を受けた港でもある。終戦後からは、国の支援によって栄えてきた。

 日本とのつながりも深く、1615年に慶長遣欧使節団を率いる支倉常長が日本人として初めてたどり着いた街である。海岸沿いには「日本聖殉教者教会」や「日本人通り」まであり、現在、石巻市と姉妹都市となって交流が続いている。

●商業港から産業港へ

 このチヴィタヴェッキア港は1995年以降、飛躍的に発展する。イタリア政府の港湾の「民営化政策」とともに、南部開発の一環として南イタリアにおけるコンテナ港湾の整備を進めるなど港湾の改善に努力してきているからであり、大きな役割を果たすクルーズ船利用者もポルトガルのバルセロナに続いて2番目である。ローマ時代と比べれば、港の面積は6倍になっている。

 今まではイタリアの小さな地方都市であったチヴィタヴェッキア市が観光などの拠点として、世界に開いて港によって大きく発展してきた。年間220万人の定期船利用者、100万人の地中海クルーズ船利用などによって支えられている。
 しかし、ローマへの通過点になっている傾向があり、遺跡などを充実して、滞在することができるような受け皿づくりに取り組んでいる。

 またチヴィタヴェッキアにはイタリア有数の火力発電所が多数あり、産業政策が大きく影響されている。火力発電所により様々な企業や産業が生まれてきている。だが、発電所を増やせという意見と必要ないという意見があり、大気汚染の問題もある。
 よって企業施策により新たな発展ができるような工業地帯を広げ、企業誘致に努力しているという。

 その代表が50万台を越える自動車の輸入であり、日本からも日産車が陸揚げされている。また有数の製鐵所が使う原料などが取り扱い物品の主要なものである。
 5万TUのコンテナを扱うガントリークレーンが9基立ち並び、はるか地中海を望むチヴィタヴェッキア港には20万トンの客船がゆったりと停泊していた。

 説明の途中に3ヶ月前に就任したサラリー市長がにこやかに入ってこられ、心から歓迎していただいた時間もあり、有意義な2時間でした。

■この報告は派遣団の公式報告ではありません■


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