伊藤ひであきの視察報告

視察報告 須坂の蔵の町並み保存 06.06.22

●古きものと新しいものと

 善光寺平の東北部、千曲川をはさんで長野市に隣接する田園工業都市−須坂市。人口53,000人、面積149.840ku。

 戦前は製糸のまちとして栄え、明治5年に官営の富岡製糸場が設立され、器械製糸が始まると須坂にも製糸工場が設立され、大正の最盛期には37の大規模工場に6,500人を越える工女を抱えた一大産業となり、アメリカへ輸出されシルクのストッキングに加工され、海外まで名を知られた。
 また「製糸王」として名をはせた越寿三郎を初めとした製糸家たちは製糸業の発展のためにライフラインの整備に力を注ぎ、それはそのまま社会資本の整備に繋がっていった。

 戦中は製糸工場の施設と労働力が疎開企業に利用されることとなり、その代表が富士通信機製造鰍ナあり現在の富士通、東京工業所はSONY、など製糸業の灯が消えていくが疎開した電気関連企業の多くが定着・発展し、先端デバイス産業都市に変貌していく。

 平成5年には上信越自動車道須坂長野東ICも開通、古いものと新しいものが機能分担しながら、都市構造の再構築を進め、新たな発展への道を歩み始めている。

●自主的な「街なみ環境整備」

 時代の変遷の中で須坂の製糸業は途絶えていくが製糸産業に関わる様々な遺産が市内各所に点在する。繭の貯蔵庫として利用された豪壮な土蔵造りの町家が多く残っている。
 昭和60年から地元新聞に「須坂の民家と町並み」として100回にわたり掲載され、須坂の町並みと民家の美しさやその背景にある歴史と生活が市民に広く認識されるきっかけとなり、「信州須坂町並みの会」が有志により結成されていく。そして日本ナショナルトラストや文化庁の支援で調査が行われ歴史的建造物は347軒、その内、土蔵造りの建物は200軒以上といわれている。
 これらは須坂の歴史と文化の集積であり、文化財や観光資源としてだけでなく商業や居住の場として活用が図られている反面、老朽化に伴い町並みの保存が急務となった。

 平成5年度に市独自で「須坂地区歴史的景観保存対策事業補助金」を創設し、保存区域内で行われる修理・修景に要する経費を対象に補助制度を設けた。
 また、国の補助事業である「街なみ環境整備事業」を平成7年度から導入し、「街なみ環境整備事業促進区域(48ha)」を定め事業実施を行った。
 この事業の柱は@小公園や公衆トイレ等の地区施設整備(事業費の2/3以内の額で500万円を限度)とA住宅等の修景に補助を行う助成事業(事業費の2/3以内の額で300万円を限度)の二つからなる。

 特徴的なのは「そこに住む住民の皆さんの創意工夫」を盛り込むために、地区ごとに「まちづくり協定」が締結され、併せてその地区に「まちづくり推進協議会」も発足し、独自のまちづくりの動きも出てきている。現在までに19の協定地区が取り組んでいる。

●それでも1割

 平成5年から17年度までに193件の修理修景事業を行っている。象徴的なのは平成12年の旧田尻製糸繭蔵の曳き家移転。中心市街地を通る国道の整備に伴い、解体を迫られていた3階建ての繭倉を保存するために、約180mの曳き家移転を行ったこと。この模様はNHKでも「蔵が動いた」と紹介され、全国から注目を集めた。
 傷みの進んでいた土蔵を曳き家という技術により移転・改修したことだけでなく、須坂の歴史を後世に伝えようとする須坂市民の意気込みが全国に伝わった。この繭倉は現在は「ふれあい館まゆぐら」として公開されていて、館内には蚕が懸命に桑の葉を食べている懐かしい光景に出会った。

 「街なみ環境整備事業」は引き続き国へ事業の延長申請を行い、平成21年度までの事業延長となり、継続しているが、修理・修景率は1割強である。今後、どのように街なみが保存されていくのか、そのカギはそこに住む住民がどのようなまちづくりにしたいのか、に全てがかかる。
 個性と魅力あふれるまちづくりは、裏返せばふるさとへの愛着や誇りである。老朽化が進む明治、大正時代の建物をどう保存し、守るのでなく発展させていけるか。須坂のまちづくりはこれからが本番であり、正念場である。老朽化という現実に、残された時間は少ない。

 視察に際し、須坂市まちづくり課の坂本課長補佐、丸山主査には丁寧にレクチャーいただき、街なみの現場へ案内していただきお世話になりました。ありがとうごいざいました。


ホームページに戻る 視察報告メニュー