伊藤ひであきの視察報告

飯田の挑戦―飯田市美術博物館 05.09.29

 長野県の最南端伊那谷の中央部、天竜川が南北に流れる飯田盆地の中心都市―飯田市。人口10万人余の環境文化都市である。

 視察した翌々日の10月1日に上村と南信濃村との編入合併が成立し市域は658.76kuと今までの2倍以上に広がり、人口は約3000人増えて10万9000人となる。その直前にお邪魔しましたので飯田の町の商店街は「祝合併記念バーゲンセール」の旗がそこかしこに掲げられていました。

 飯田市役所のすぐそばにかっての飯田城二の丸、本丸跡地に柳田國男館や日夏耿之助館を脇にして風格ある趣でどっしりと構えているのが飯田市美術博物館。

 我が豊橋市においても豊橋市美術博物館のリニュアールめざし、国際コンペの準備中でもあり、三遠南信地域交流もかねて5人の公明党市議団で視察訪問した。

 このコンパクトなまちからは偉大な美術家や文筆家などが輩出しているが、代表的なのが菱田春草。
 菱田春草は明治7年、飯田・仲之町の生まれ。東京美術学校で絵画の諸技法を学び、明治31年には岡倉天心の指導下で創立された日本美術院に参加。そして同院にて没線主彩の絵画技法の研究に取り組みますが、画面が暗濁化する傾向をともなうこの技法は「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれて批判を受けました。
 明治36年、春草は天心の勧めで横山大観と共にインドに赴きます。翌37年には天心・大観らとともに米欧に訪れ、東洋と西洋の美術を見聞する機会を得ました。そして帰国後は徐々に朦朧体から脱却し、琳派風の手法を取り入れてゆきます。
 明治40年からは文展を主な舞台に活躍し、《落葉》《黒き猫》(共に永青文庫蔵)といった近代の日本美術史に名を残す名作を手掛けました。しかしこの頃より腎臓を患い、また眼病も併発してしばしば画作の中断を強いられています。そして明治44年9月、慢性腎臓炎のために満36歳の生涯を閉じました。

 この菱田春草の画を常設展示し、「伊那谷の自然と文化」を基本テーマに美術部門は「自然と人間のフュージュ(融合)」、博物部門は「きびしく豊かな自然とその中に生きる人間」をコンセプトに100年後のあるべき姿を見詰めながら、ハイレベルな施設作りをめざしているのが飯田市美術博物館。
 総事業費24億円をかけ昭和63年に落成し、平成元年8月に開館している。平成14年には菱田春草の代表作「菊慈童」を3億円以上の買い物である。そのために「菊慈童の購入を願う市民会議」が発足し、市民の寄付金は5127万円余が集まっている。このことに代表されるように地域・市民との結びつきが深く、教育普及活動や出版活動が盛んなのである。
 また自然、人文、美術の3部門に渡る複合施設を連携するために各部門の学芸員の研究の条件を整備し、活発な学芸活動をめざし、各部門の専門家との連携も強化し、共同研究も積極的に行い学術的にも高度なレベルをめざしているのが特徴的。
 これらは取りも直さず、飯田出身の京都国立博物館館のスタッフでもある井上 正館長の「真の憩いは安楽に座することでなく、むしろ積極的に新しいことを学習することの中に見出されるものです」という強い願望の表れであり、そのリーダーシップのもと「わかり易い市民の憩いの場」めざして情熱傾ける学芸員諸氏やスタッフの皆様の日夜のご努力がうかがい知れます。

 秋を向かえ、静かなたたずまいを見せる信州飯田の美術博物館は文化振興による「地域力」アップにひたむきな挑戦の姿勢がにじみでていました。

 視察に際し、丁寧にレクチャーいただきました桜井弘人学芸係長をはじめ暖かく迎えてくださいましたスタッフの皆様にお礼申し上げます。


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