「聖教新聞」掲載の「素晴らしき出会い」から


 9月11日に起こったアメリカ中枢機能への同時テロを境に、歴史の歯車がうなりを上げて回り始めた。断じて許すことのできないテロ行為、それに向かう報復という軍事行動。しかし、報復は報復を生み、人間同士の殺し合いは拡大していく。その陰で、多くの子供たちが、多くの女性が、無名の人々が真っ先に葬り去られていく。誰もが同じ人間なのに、誰もが幸福と安穏を願っているのに・・。憎悪を希望に変え行く回転軸はないのか。地方政治に身をおく、一人の人間として、この歴史的転換点を、どう捉え、どう向き合えばいいのか。到底、私のような不肖ものに考えは及ばない。あまりにも不明すぎる。

 その茫然自失の苦悩の中で、見つけた一条の光ーそれは「聖教新聞」が9月16日と23日の「池田SGI会長の素晴らしき出会い」の中で、アラビア研究の先覚者-故川崎寅雄先生とインド文化関係評議会-シクリ元長官との出会いとお二人の生涯と対話から、明確に示唆してくださった文章の中に珠玉のごとく光っている。今こそ、このメッセージを伝達することが、私のなすべきことと、以下お伝えします。



勇気!非暴力の勇気を!
アラブ世界との対話で「平和の世紀」を!

9月16日、23日付聖教新聞 「素晴らしき出会いから」



テロの根絶のために

 今回、アメリカに対してあまりにも残酷なテロが実行された。どんな理屈をつけようとも、こんなやり方に誰が共感しようか。納得しようか。
 伝えられるように、もしも犯人が宗教を持っているとしても、こんな行為が「殉教」であるはずがない。殉教とは人を救うことだ。人を殺すのは、ただの破壊者だ。今、全人類が「テロの根絶」へと結束すべきときが来た。
 問題はどうすれば、それができるのかである。軍事的な報復によって、それができるであろうか?間違いなく、さらに憎しみをかきたてるだけではないだろうか。火に火を加えて、世界を燃やし尽くす争いへと拡大してしまうかもしれない。
 テロの背景にはアラブ世界に広がっている「強い反米感情」があることを考えれば、ガスが充満した部屋に火を投げ込むことになりかねないのである。
 仮に、当面の"敵"を制圧できたとしても、それで本当に「平和」が来るのだろうか?積もり積もった「憎しみ」は、いよいよ地下にもぐり、世界のどこから現れるか予想もつかなくなり、いよいよ不安な世界になるのではないだろいうか。
 そもそも、「力」で他国の民衆の声を押さえ込んでの平和とは、「死の平和」である。「墓場の平和」である。私たち人類は、そんなものを望んでいるのではないはずだ。
 しかも、軍事行動となれば、罪なき民衆の犠牲も出る。軍事用語でそれを「副次的被害」と呼ぶそうだ。なんと冷ややかな言葉であろうか!
 アフガニスタンの民衆は、戦乱と干ばつで疲弊しきっていると伝えられている。国連の食糧農業機関の警告によると、もしもアフガニスタンに報復攻撃が加えられたら、更に食糧不足が悪化し、「人口の四分の一にあたる六百万人が飢餓状態に直面する」という。そんなことをやる権利が誰にあるだろう。どこの国にあるだろう。それが「正義の戦い」といえようか。これまた「副次的被害」にすぎないといえるのか。

人間は「分かれ道」に

 半世紀前、収まらない暴力の連鎖に、ガンジーは声を高めた。
 「人間はけものと区別するのは、道徳的高さにおいて、けものに勝ろうとする絶え間ない努力です。いまや人間は『分かれ道』にたっています。暴力という『ジャングルの掟』か、それとも非暴力という『人類の法』か、どちらかを選ばなければなりません」
 今、世界は、まったく新しい歴史を開くチャンスである。こう宣言できる好機なのだ。「われわれは、今回のテロ事件を『人類の法』に対する挑戦と見なす。ゆえに同じ『ジャングルの掟』に従うことを拒否する。われわれは武力による解決でなく、アラブ世界との大いなる対話を開始することを宣言する。『憎悪の大火』に油を注ぐのではなく、かってなかったほどの『対話の洪水』で、火を鎮め、世界を潤す道を選ぶ。
 この惨劇は、21世紀の最初の年に起こった。この2001年を、われわれは『アラブ世界との対話』元年としたい。それが、このような悲劇を根絶する最良にして唯一の選択であり、犠牲者を慰霊する正道であると信ずる」と。

国際社会にも法治を

 そして、犯行者に対しては国連が中心となって、テロリストを国際的な司法の場で裁くシステムを作るべきであろう。
 「殺人事件」が起こったら、犯人を逮捕して、きちんと裁判の手続きをし、判決、刑の執行ということになる。被害者が直接に、犯人に復讐をすることは禁じられている。報復で殺した者も、「殺人罪」になる。それが、長い時間をかけて、人類が整えてきた「法による支配」である。それでこそ「法治国家」のはずだ。
 にもかかわらず、国際社会だけが、今なお、そういう手続きもなく、いきなり「死には死を」という復讐を認めるのはおかしい。

力が正義ではない。今こそ対話を

 そして、どんな理由があるにせよ、兵士でもない市民を殺戮(さつりく)するのが「正義」なのか?大人が始めた戦争で、なぜ子供たちが殺されなければならないのか?
 報復、報復、また報復。「原爆」も「真珠湾」の報復だったのだろうか?「真珠湾」は絶対に悪だが、では「悪を懲らしめた原爆」は正義だったのか。
 私たちは西洋文明を愛し、尊敬するゆえに、文明の名に値する「非暴力の道」を本気で模索してもらいたいと願う。侵略者やテロに対する、公正な国際的裁判のシステムを!そして、不信感を信頼に変える努力を!
 それこそが「テロ」という「暴力の崇拝」への根本的な治療策ではないだろうか。 対話を、対話を何があろうと対話を。「力にものを言わせる」時代を終わらせなければ、21世紀もまた「戦争の世紀」になってしまう。


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