伊藤ひであきの地方からの提言


'10新春 地方議会に迫る変革の波       2010.01.10

●「地方自治法」改正で議会の風景が変わる

 政府は18日召集の通常国会で「地方自治法改正案」を提出する方針だという。特に地方議会の議員定数や会期などを地域の実情に合わせて決められるようにするとのこと。
 現行の「地方自治法」では地方議会の議員数の上限を人口に応じて定めている。定数上限が撤廃されれば、地域に応じた柔軟な対応が取れるし、会期などの縛りが外れれば地域の実情にあった独自の議会を開けるようになる。

 週末ごとに通年議会が開かれれば、サラリーマンのまま議員としてまちづくりに参加することもできるし、働く女性の代表がそのまま議員として議論を展開することができる。また市民も週末に議会が開かれれば議会傍聴の機会が増える。

 IT情報社会は住民の政治意識を大きく変化させている。そして住民の「自分たちのまちの幸せと未来は自分たちが担っている」という意識は強くなってきている。その分、「住民代表のはずの議会がその役割を果たしているか」という大いなる疑問を持ちだしているというのが持論であるが、それが法改正で制度として可能性が開かれようとしている。

●問われる議会のチェック能力

 新政権は、「地方分権」との言葉をあえて用いず、地方に権限を強力に移し、行政への住民参加を徹底したうえで、自立した自治の完成を目指す考えだという。大いに歓迎できることではある。

 そしてまた権限と財源が地方に強力に移譲されれば、それだけ成功、失敗に伴う結果責任を首長は問われ、議会はその存在意義が問われ、その結果いかんでは住民の生活が大きな影響を受けることになります。
 今まで地方分権が進まなかった背景に、権限と財源をきちんと受け入れるだけの能力が地方にあるのかという不信感が根強くはびこっていた。それだけに自治体はその受け皿にふさわしい政策の立案能力と、権力のチェック機能が求められる。

 それはそのまま二元代表制である地方議会の在り方に及ぶ。住民の期待にこたえうる議会がおこなわれているだろうか。多くの議会は執行部側の提案する議案が「原案どおり可決」され、「八百長と学芸会」(片山善博前鳥取県知事)といわれるような審議がまかり通っていないかを自戒を込めて問題提起しなければならない。

●遅すぎる政令市や都道府県議会の改革

 名古屋の河村市長が「議員や報酬とも半減すべき」と突き付けるのが議会ボランティア条例案。間違えれば地方自治を崩壊させかねないこの提案が、それでも名古屋市民の熱い支持を得ているのは何故だろうか。

 名古屋市議会では委員会が未だマスコミなどには非公開で行われているし、毎月55万円にも及ぶ政務調査費も全面公開には至っていない。河村市長の挑戦に新年早々、本会議や委員会開催日ごとに支給されていた一日1万円の費用弁償をこの4月1日から廃止することを市議会自らが決めたというニュースが流れたが、「未だにそんな費用弁償がされていたのか」と唖然とするのは私だけだろうか。
 何せ豊橋から新幹線で名古屋市議会に往復しても4,000円でお釣りがくるのに、なぜ1万円を受け取るのに「おかしい?」と思わないのだろうか。廃止するなら何故、即年初から廃止にしないのだろうか。
 しかし、こうした費用弁償や政務調査費の使い方は名古屋市に限らず、政令市や、都道府県議会ではまだまだ半分くらいは同じようなことが行われているという現実。

●地方議員は力をつけなければ「烏合の衆」になりさがる

 地方議会は「民主主義の学校」と言われ続けて60年。「地方分権を進め地域主権型道州制」や「新しい国と地方の関係を構築するために国から権限と財源の移譲を進める」ともどの政党も掲げている。

 しかし、今まで新政権で見られるような「地域主権戦略会議」、国と地方の協議機関の法制化や、ヒモつき補助金を使途が自由な一括交付金に改編する作業などは何故日の目をみなかったのだろうか。冒頭にあげるような地方自治法の大胆な改正が何故議論されなかったのだろうか。そればかりか「三位一体改革」では地方分権に名を借りた国の財政立て直しにはなっても、それにより地方はさらに財源不足に追いやられてしまった事を結果として許してしまった。

 私たち地方議員は政策立案能力を磨きに磨き、時代と地域を動かしていかなければ、「こんな議会は要らない」、「こんな議員も要らない」と事業仕分けされてしまうことを、己の不明と自戒を込めて書き留めるものです。


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