伊藤ひであきの地方からの提言


05秋 柏崎にて 中越地震から一年      2005.11.06

  10月21日、22日と新潟県柏崎市に滞在し、「東海・近畿・北陸三地区都市監査事務研修会」に参加していました。

 柏崎に向かう途中、新幹線で降り立った長岡駅の手前には仮設住宅がひっそりと建ち並び、死者51人、負傷者は約4800人にのぼり、今なお9000人が仮設住宅で暮らす、あの中越地震からちょうど一年。
 研修の中で「中越地震時の救援活動について」と題して講演していただいたのは、当時、陸上自衛隊第2普通科連隊連隊長として現地に派遣され、約2ヶ月間現地において人命救助、民生支援及び復興支援の指揮をとった阿部金二氏。

 特に、地震発生(10月23日17時56分)当初の最も困難な人命救助の段階(主として10月23日〜25日)において、現場の実状況を地図を駆使し、連隊がどの様な行動をしたかを約2時間に渡って述べられました。その中には極めて重要なポイントがいくつかありました。

●あらゆる手段をつかって現場へたどりつけ

・隊員は土曜の夕刻にも関わらず非常呼集により直ちに駐屯地に集結、各中隊に速やかな出動準備及び連隊指揮所の開設を命じると共に、情報収集を命じた。連隊にとって最優先の情報は「中越地方の何処で災害が発生しているか」であり、「死者や行方不明者が出ている場所を特定せよ」と命じ、中越地方に進出する全ての経路に情報小隊及び各市町村に派遣する連絡幹部に経路偵察を命じ速やかに出発させた。
 彼らに命じたのはただひとつ「あらゆる手段を使って柏崎・長岡・小千谷及び十日町の現地対策本部にたどり着け。この際、道路状況及び被害状況を逐次報告せよ」でした。さらにその情報収集のために出雲崎の小木城に無線中継所を2時間後には開設している。

●これは訓練でない、実践だ

・高田駐屯地から予想される被災地域まで100qの距離があり、進出経路も破壊されている可能性がある状況で、行動方針は、@逐次に速やかに出る。A態勢を整えてから出る。B派遣要請が出てから出る。

 の3通りあったが、私には@の“逐次に速やかに出る。”の行動方針のみが脳裏をかすめておりました。遅れてはならない、「被災地域に推進するには時間が掛かる。これは訓練ではない実戦だ!急げ」。
 新潟県知事からの自衛隊派遣要請が出たのは、現地で救助活動を必死に展開していた21時過ぎである。

●いざというとき使えるのは

・テレビ、ラジオにより寄せられる情報、各地の自衛隊OBより寄せられる情報、そして各市町村へ派遣した先遣隊から寄せられる無線情報を精査しながら「人命救助最優先の行動」を指示。各連絡幹部から、逐次携帯電話、メール及びコンビニの公衆電話を利用しての状況報告であったが、携帯電話は不通になり公衆電話が最後まで有効な手段であった。

 また、高速道路が通行可能でることが判明したが7月の豪雨災害派遣の教訓(途中で通行止めに遭遇し、出口において交通渋滞に巻き込まれた)から高速は使用せずに、R8柏崎経由で自らも長岡を目指した。一部の部隊は高速道路を使用したが、予想した通り柏崎インターで渋滞となり大きく時間をロスすることになった。

●車が行けなければ、徒歩で行く

・震源地に近づくにつれ各橋梁及び道路は通行不能であったが、一刻も急を要する事態に、車両で前進できるところまで前進し、後は徒歩で速やかに前進し、人命救助を実施した。「車がいかなければ徒歩で行く」のが我々の常識であり、地図を判読すると十二分に踏破出来る山地と判断した。人々はたび重なる余震あるいは家屋の崩壊を恐れ、真っ暗な道路上に出て難を逃れていた。その中を「我々は自衛隊です。けが人は居りますか。大丈夫ですか」と声を掛けながら前進した。
 暗闇の中50人の集団がけたたましい足音を立てて歩いてきた時は「これで助かった。自衛隊か来た。」と喜んでくださった。

 また、ヘリコプターを使った救助活動は天候に左右される、現地の降着地域に制限を受ける、また降着するための誘導体制等不確定要素が多く、十分な体制が確認できなければ無用の長物である。
 人命救助は現地への進出・救出・後送及び収容(病院等)の一連の行動すべてを実施して初めて人命救助であり、迅速・確実性が要求されるため、幾重の処置を実施した。

●黙々と責務を果たす

・テレビでも紹介されましたが避難所における炊き出しや給水は24日の午後から行った。高田駐屯地を出発した23日時点で炊事車及び水トレーを携行して被災地域に進出するよう命じていたからであり、小千谷市役所の近傍で、魚沼産こしひかりの新米を使っての炊き出しの支援は約20日間続き、米9760s延べ56050個のおにぎりを支援した。また避難所では入浴施設が特に喜ばれた。

 当然であるが、我々は2ヶ月間、風呂にも入らず、食事も建物の陰でとりながら、朝4時から夜8時までひたすら復旧活動し、あとはただテントの中で眠るだけである。コンビニが開店するようになっても我々は買い物には行きません。行ってはいけないのです。

●地域の絆が災害を最小限に

・今回の災害派遣を通して考えさせられた事に、大きく二つの事がありました。
 その第一は、我々が忘れかけていた地域(町内会の隣組等)の結束の重要性であります。雪国で毎年豪雪と戦い地域の人々が助け合いながら生活してきた中から自然と根付いた精神―「自分の事はいいから他人を助けて。他の地域の人が全員もらっているなら救援物資をもらいましょう」という言葉がどこでも聞かれたことです。その言葉に助けられて被災地域に早急に進出し、救助活動がスムーズにいった大きな要因でした。

●何より現場、何でもやる

・その第二は「先んずれば事を制す」と言う言葉が有る様に、誰よりも早く現場に到着したことではなかったかと思います。発生直後の混乱の中、我々の現場進出が、住民に安心感を与えるとともに、状況を早期に掌握し、逐次に対応ができたことが被害拡大の抑制に大きく貢献したと思います。

 いずれにしても原理原則ばかりで物事が通用する様な、机上の議論をやっている状況では無く、「やれる事は何でもやる。」「やれないことも何とかやる。」に徹して実施しました。国土防衛の任務を第一に実施している日頃の訓練成果を発揮し、私の元で活動したすばらしい隊員に感謝申し上げると共に被害を受けた中越地方の早期復興を願わずにはおられません。


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