伊藤ひであきの地方からの提言


私のプロジェクトX 桜ケ岡に「あいトピア」落成!      2004.01.26

●今まであったものがなくなった!

 私の家から南へ150m、豊橋市前畑町に豊橋の福祉拠点−新総合福祉センターが1月26日竣工式を迎えました。

 昭和23年9月、この地に市立豊橋桜ケ岡病院が開院。増改築を繰り返し、内科・外科・小児科、185床、医師9人、看護婦39人の体制で地域医療に貢献してきました。
 昭和50年代、毎年3億円余の医業損失を計上し、狭くて、老朽化も激しく桜ケ岡分院のあり方が問われていきました。
 昭和62年4月、初挑戦、初当選させていただいて市議会議員となった頃、桜ケ岡病院から豊橋市民病院桜ケ岡分院と改称されました。その頃から、医業収支が悪化し、累積欠損金の増加や市東部方面に民間病医院が整備されてきたこともあり、桜ケ岡分院を統廃合する一体化の方向で新市民病院が東三河の総合基幹病院として整備されることになりました。当然、桜ケ岡分院は閉院し、取り壊されることに・・・・。

 平成2年1月、様々な論議を経て、新市民病院が市西部の青竹町に決定し、平成5年6月起工式、平成8年5月新市民病院が開院しました。「東洋一」を誇る最新の設備と規模の市民病院の誕生です。一方、桜ケ岡分院は取り壊されました。

 「今まであったものがなくなった」。更地に呆然と立ち尽くしました。

●桜ケ岡の歴史を生かせ!

 この推移は桜ケ岡の一番近くに住む市議会議員として苦しい選択でした。行政改革の時代に豊橋に二つも市民病院が必要なのか。
 一方で、50年にわたって地域医療を担ってきた尊い歴史に終止符を打っていいのか。

 当然、「診療機能だけでも残せないのか」という地元要望も強く残りました。しかし、地域医療計画との関係でそれは不可能。診療機能だけとなると、周辺医療機関との関係、公立病院の今後の病診連携のあり方などからも不可能。
 当然、「桜ケ岡分院を残そう」という地域運動もおこり、署名活動や議会への陳情活動が幅広く行われ、2回目、3回目の選挙は厳しいものでした。

 一方、二つあるものがもう一つ豊橋にありました。国立病院です。しかし、平成12年春、実に厚生省と豊橋市との間で14年にわたって協議がなされてきた国立豊橋病院(中野町)と国立豊橋東病院(飯村町)の統合問題は決着し、「市東部にある現国立東病院の隣接する適地に新しく建設される」という朗報がもたらされました。

 西の市民病院、東の国立病院の配置が正式に決まったのです。

 桜ケ岡跡地は長く空き地のまま推移しました。「桜ケ岡の歴史を生かしてこの地に新しい福祉拠点を!」伊藤ひであきの議会活動は長い戦いでした。

●地域活性化の拠点完成!

正面玄関 1階市民ロビー 3階多目的ホール
喫茶「路面電車」 地下1階の和室 欧風の中庭(パティオ)

 今、この地が新しい福祉拠点として再生しました。新総合福祉センター「あいトピア」(愛称)が完成し、1月27日から利用できるようになりました。いよいよ豊橋の新しい福祉拠点のオープンです。地下1階、地上3階で総事業費約23億円。

 主な機能は
@地域福祉センターの核となる福祉の拠点施設
A福祉ボランティア活動拠点
B障害者の機能回復・自立促進の拠点施設です。

 現在の総合福祉センター(八町通)内に事務局を持つ社会福祉協議会や、近隣の身体障害者総合福祉会館の各種訓練室などが新センターに入ります。

 伊藤ひであきが特に取り組んできた地域コミュニティーの場として、地下1階には娯楽室・和室、1階フロアには市民サロン、喫茶コーナー、福祉相談・情報コーナー、3階には200人収容の多目的ホールなどが配置されています。
 また市民サロンにはヘルストロン3台なども設置され、地域の皆様が気軽に出入り、利用できるよう努めてきました。
 また周辺一帯を福祉ゾーンにするために人にやさしい街づくり事業も進みました。

 障害者の皆さんがこの場で大いに社会参加し、地域の人たちが障害者とふれあい、障害者とともに21世紀の福祉のあり方を学び、共生するための発信地になれば、文字通り「あいトピア」になる訳です。 また高齢者が多いこの地の地域活性化の拠点として大いに情報発信することになれば、この公共財は大いに光り輝くことになります。

 感無量です。地域の皆さん!後押しありがとうございました。来春、国立病院が開院してこのプロジェクトは完結します


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